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生きていくってそういうこと ――直虎32話感想

チキチキ!第1回政次の愛について徹底討論会~!…とかやりたいくらい、第32回、政次さんは我々に竜巻爆弾をぶっこんできました。以下に5,000字を超す長文を書き連ねたわけですが、この解釈も、他の解釈も、どれが正解だとかいうことを言いたいわけではありません。観る人全てのありとあらゆる解釈、きっと矛盾もあるけれど、「どれも正解」であり、「正解など本人(役)の心の中にしかない」みたいなものなのかなと思っています。とにかく渦巻く感情を書き出していきます。

 

まずは①政次→なつの想いについて。こんなびっくりプロポーズ聞いてないよ!と誰もが思ったことでしょう…。なので政次にとってなつが「特別」になったのはいつだろうか、と考えてみます。

政次が直親の一件を経て数年を駿府で過ごした後に帰ってきたとき、屋敷には「家族」と呼べる者が誰もいなかったはずです。井伊中から疎まれ、恨まれ、いちばん大切な次郎を泣かせ、ひどい言葉を浴びせ。政次が自分で選んだのだから「そんな扱い」という言葉は違うでしょうが、愛してやまない故郷に、大好きな井伊に、そんな扱いを受ける日々は、さぞ孤独だったのではないかと。「優しい子」である政次が、自分の行いに自分で傷つかなかったとは思えません。その傷すら、直親を死に追いやった罰などと思って、ただただ受容していたのでは。

そんなとき、「家族」としてなつ(と亥之助)が小野の屋敷に帰ってきました。「邪魔であれば出て行きます」と言うなつに「邪魔などではないが、」そう答えた心には、家族を、癒しを求める魂の叫びがあったのではないでしょうか。1日が終わり、帰る家に、家族と呼べる人がいる。(結果的にはバレバレだったけどこの時点では)誰にも本音を言えず、孤独にひとり今川の盾となる政次にとって、自分を少なからず想ってくれる存在、信頼してもいいと思える人が身近にいることが、どれだけ救いになったか…。

 

第25回、関口氏の手前対面できない直虎と政次を案じ、なつが政次を後ろから抱きしめ「私が使いに参ります」と囁くシーン。この話の感想で、私はこんな感想を呟いていました。

この時既に、「政次にとってなつは特別な存在になりつつあるのではないか」そして「直虎への想いは昇華されてきているのでは」と、感じていたようです。そしてこうも書いています。 

なつの中の人がインタビューで仰っていた「共鳴」とはこういうことなのかもしれません。なつが政次の、井伊(おとわ)への深い愛を感じ取ったとき、政次もなつの自分への献身を感じていた。表だって(政次に対して)は一貫して「お役目」として、慕う心を隠し尽くすなつ。それは政次がおとわに、井伊にずっとしてきたことと同じです。

 

そして第32回の求婚シーン。ノベライズには、ドラマにはなかったこんな台詞があります。

夫の菩薩も弔わず、私の慰み者になっておると、心ない噂を立てられたこともあろう。恥ずかしい思いをさせ、いつもすまぬと思うていた……

ただでさえ、井伊と縁戚である奥山から“嫌われ者の小野”に嫁ぎ、さらにその後家にとどまることが、全くなつや亥之助を傷つけなかったはずはない。それでもなつは献身的に支えてくれ、亥之助は明るく慕ってくれていました。あの求婚のシーン、政次はなつの「そろそろお役目も終わり」という自分の元を去ろうとする言葉を聞いて、ふいに「こたびのことが終われば」と気持ちをこぼしてしまったように見えるけれど、それはずっと心の中にあった愛しさがあの瞬間に具現化されたのかなと思います。「形ばかりの」と言ったのは、『「玄蕃の妻」でいようとするなつ』に対する気遣い、だとか、夫婦になるということは子をもうけることというのが今より強い意味を持っていた時代だと思うので「そういうことではなく今まで通りにそばにいてほしい」という思いを表していたのかなと。

「ずっとすまぬと思っていた」「感謝してもしきれない、(物理的に)私に何ができるだろうか」といった“情”や“優しさ”だけではなく、「そんななつを愛おしく思うようになった」と、きちんと政次の気持ちは動いたのではないか。そう私は思っています。

(解釈考えるうえでこの「形ばかりの」の厄介さ、、(笑)なつの心に気付いていたとしたら、おとわに操を立てておりなつの慕う心には応えられないと言っているようにもとれますし、ノベライズでは察してるけど、ドラマ版ではなつの恋情に気付いていなかった、という表現にもとれますしね。。)

 

続きまして、②政次→おとわ(次郎・直虎)への気持ちについて。

しかしまぁ今更言うまでもねぇ!!!!って感じでして、この台詞が全てかなと。

私は幼き時より、のびのびと振る舞うおとわ様に憧れておったのかもしれぬ。それは今も変わらぬ。殿をされておられる殿が好きだ。それは身を呈してお助けしたいと思う。その気持ちを何かと比べることは出来ぬ、捨て去ることも出来ぬ。生涯、消えることはあるまい。

​フォロワーさんのリプで出た言葉なんですが、「目の前にいるのはなつだけど直虎にプロポーズしてた」。これほんと、「生涯の愛を誓っている」という意味ではまさにプロポーズ。そりゃなつさんも涙こぼしますよ。

またノベライズ持ってきて申し訳ないけれど、ノベライズにこういった言葉があります(政次の心情)。

もはや男女の恋愛感情を超えた――(略)、直親がいなくなって、二人は互いが己の半身のようになってしまった。

自分の半身とは、夫婦にはなれない。

政次も言っているとおり、おとわへの想いは比べるべくもなく、生涯消えることはない。「小野政次」という人物を形成する上で「おとわ(井伊直虎)」という人物は欠かせない要素であり、心の中に居続ける存在。でももしかしたら、その第2位くらいに「直親」がいるんじゃないかなと思っています。

直虎は「直親の現身として」生き、そして政次はそんな直虎を「己の半身」とした。3人は、井伊を守るために生き、そしてその同じ目的を達するため、同じ道を歩くため、どんどん魂がひとつになっていったんじゃないか。

  

政次の恋心については、数多ある解釈のひとつとしてですが、「直親が好きなおとわが好き(だった)」というのもあるんじゃないかと。鶴丸の頃からおとわに対する気持ちとして、「好きで自分のものにしたい」と同時に「おとわに幸せになってほしい」と思っていたでしょうから。歳を重ねても、自分の中のおとわの存在が消えないのと同じように、おとわも直親を想い続けていると、政次は思っていたのかもしれません。そして、自分が命を奪った親友への操、的な気持ちもあったかもしれない。政次と直親って結局親友だったというか、イライラすることもあれどやっぱり幼馴染として確固たる友情や結びつきがあったでしょうし、同じ女を、同じ井伊を守りたいと願う同志であったはずで。いざ「おとわと夫婦になれる」環境が整ったところで、自分が殺した親友の得たかった幸せを、自分が得ていいはずはない、みたいなことを思っていたかもしれません。たとえなつの存在がなくとも、上からの命令だとか武家としての戦略でなく「政次の意思で」おとわと夫婦になることは、望まなかったような気がします。

 

 

ここまで散々書き連ねましたが、結局はあの台詞で、役者の声色で、表情で、全て、いやここに書いてある以上に、表現してしまっているんですよね。政次は、きちんと言っています。直虎に対しては「好きだ」という言葉を、そしてなつには「それとは全く別の気持ちで、手放したくない」と。直虎に対しても、なつに対しても、「政次の深い愛」がひしひしと伝わってくる。完璧に表現されていながら、いくらでも解釈の余地があり、どんな愛の形も創造できる台詞。すごいです。

私の中では、この「相手のため」と「自分を支えてくれる人」の2種類の愛は、直虎と政次、政次となつの間で決して重ならない。重ならないけれど、夫婦になる道を選ばなかったり、選んだりする。

個人的な感覚なのかもしれませんが、政次の言葉の中の、「憧れ」と「手放したくない」は向ける相手のイメージが逆です。「憧れ」や「お助けしたい」は、どこか自分よりも“格上”というか、自分の中に置いておけない者への感情な気がしていて、対して「手放したくない」は、自分のところに置いておきたいといった少し内包的なイメージのある言葉。政次は、夫婦という形でおとわを自分の中に閉じ込めたくはなかったのかなぁ、とか、思ったりしました。

政次の心の中で、直虎となつは、どちらに対する愛がより深いとか強いとかそういうことではなく、心の別の場所にそれぞれ大切な存在として居るのだと思います。

 

直虎の脚本家である森下佳子さんが以前手がけた『JIN』完結編の(知らない人は以下ネタバレ注意)最終回、仁先生は咲に対して「お慕いしておりました」と言います。これが放送当時私はすごくショックで、というのも、咲が大切なのも、元居た時代に戻れないかもしれないから咲と結婚しようと思った気持ちも理解できたけれど、仁先生が「恋心」「男女的な愛情」として想い続けるのは現代の恋人である未来だけだと信じていたんですね。だけどこのドラマは「元の時代に戻るより(未来に会えなくなるより)、咲さんに会えなくなる方が嫌だって思っちゃったんです」と、未来から咲への心の移り変わりを描き、最後には「お慕いしておりました」とはっきり言います。きっと、仁先生は「戻れるかどうかわからない元居た場所」よりも、「今目の前にある現実」と、そこに居る人々への愛情が、心の中の比重として重くなっていったんだと思います。

政次の心情を考えているとき、このことが頭に浮かび、すごくリンクしました。

直虎ノベライズには、こんな一文があります。

直親がおらねば、自分が小野の家に生まれていなければ、また別の人生もあったろう。しかし、現実はそうではなかった

そう、現実は、そうではなかった。これが全てな気がしています。

初恋で、自分のものにしたい時もあった、直親がおらねばおとわと夫婦約束をするのは自分だったかもしれない。直親の家や立場を羨んだ時もあった。けれど直親がいなければ逆に、幼馴染として親しく過ごした時間は存在しなかったのかもしれない。生まれた家が小野でなければ、こんな思いをせずとも井伊で過ごせたかもしれない。でも現実はそうではなく、おとわは出家をし、直虎として当主になり、それは直親の分まで守らねばならぬ存在で、今川を欺き井伊を欺き、生きてきた。その思いを直虎は気付き、認め、信じ、応えてくれた。そばで支えてくれたのはなつだった。

家臣としての「小野但馬」は確かに「報われた」。その時残った「政次」としての、ひとりの人としての、男としての、政次の気持ちで、幼き頃のように直虎を1人の女である「おとわ」と見られるか。また直虎も、政次の前で、「おとわ」で居られるのか。

 

いろんな要素が重なった結果の現実、その中で政次は「家臣として殿と生き、なつと夫婦として生きたい」という選択をしたのだと思います。

 

これを考えているとき、ふと、生きていくってそういうことなのかもなぁ、思いました。

もしも、を言い出せばキリがないけど、実際に生きているのはその現実ひとつなわけで。どれだけ嬉しいこともつらいことも、忘れていくし、愛も人も世の中も変わっていく。人はその時々の思いで、生きていくしかない。「現実の中でベストを選んでいく」というのが、森下先生が描く「人生」なんだな、と。

そして、そう思うと政次はあのとき本当に心から「生きて」いて、やっと仮面を外して本来の、自分の心のままの「小野政次」として生きていて、そしてこれからを生きようとしていたんですよね。

………あの~~~森下先生、こんな回の次回で死に向かって真っ逆さまってどんっっっっっだけ落差あるかわかってます?????????(笑)

いやほんと、えげつない、生と死の描き方がえげつない。知ってた。でも言わせて。鬼か!!!!!(笑)

けれど、ここまで考えて、思える、そんな役が存在して、高橋一生が魂を吹き込んだその姿を見られること、生きる喜びだなぁと思います。心から、このドラマに携わるみなさま、ありがとうございます。でも鬼!!!

 

第33回、心して観ます。

長文読んでくださった方、ありがとうございます。おわります。